日本チェンバロ協会 10周年に寄せてのメッセージを野村満男氏と風間千壽子氏よりいただきました。
日本チェンバロ協会創立10周年に寄せて
野村満男
協会設立以前の我が国のチェンバロ界を書いておきたい。徒然草流にいえば「心静かに思い出にふけると、何事につけて、過ぎた昔の恋しさだけがどうしようもなくつのってくる(第29段)」。
初期音楽の演奏や鑑賞が隆盛をみた1970年頃、私は高校音楽教師。バロックに音楽の基本があると考え、チェンバロの自作と通奏低音本(H・ケラー著『通奏低音奏法』)の翻訳を始めた。後者には、既習した筈の和声学や対位法は無力だった。何と言っても実践には敵わない。藝大楽理科の服部幸三先生が世話役で、バロック音楽のコンサートを催していた多田逸郎、山田貢のご両名に楽器製作の先達・百瀬さんを紹介され、お世話になりながら工作の実践をした。そのとき、私の背中をみていたリコーダー演奏の巧みな生徒がいた。柴田雄康君だ。彼もチェンバロ自作を始めてしまった。武蔵野美大を卒業して美術教員になり、一安心と思っていたらすぐ退職して東京リコーダー・カルテット(山岡重治・柴田雄康・松島孝晴・北御門文雄)を組み、1975年、ブルージュの国際古楽コンクールで1位を受賞。同時に名手・ブリュッヘンも敬意を払った作曲家の廣瀬量平を世界的に知らしめた。だが、カルテットのメンバーは短命で存命はいま山岡君だけ。その行動は、兼好法師のいう第59段「大事を思ひ立たむ人は(やりたい事を決めたら、それに全力を注ぐ)」と、短命も第7段「あだし野の露きゆる時なく(人生は限りがあるからこそよい)」だったのだ。
当時、ホールや音大の備品としてのチェンバロは、すべてピアノ由来のいわゆるモダンの重構造である。海外に残るオリジナル楽器の構造と「どうも違うぞ」と、製作実践中早目に気付いたのがよかった。工房が勤務校近くにあった堀栄蔵さんともそういった情報をやり取りする研究会で集った。会員の三上達也さんの製作した1615ARが成功作で、それが、モダンからヒストリカルへ脱却する世界的潮流に、我が国も遅れをとらずに済むきっかけになったと思う。
その頃、鍋島元子女史がオランダから帰国してオリゴという名の組織を創設、丸の内の日本工業倶楽部ホールでチェンバロを使う啓蒙的なコンサートを開催された。一方、ルッカース信仰に取り憑かれた堀さんは、アントワープからルッカースの古文書研究者を招いた。集いの質疑では、かねてからトラブルの元になっていたピン板の固定法がルッカース楽器はどう?と問うたところ要領を得ず、堀さんからは愚問と揶揄された。たしかに古文書研究者に構造を聞くほうがバカで、後年刊行されたG.オブライエンの著書『ルッカース』でやっと納得した。
実は上記御両名は毒舌家、とまで言わなくとも歯に衣着せぬ人。堀さん曰く「悪口言わなきゃ飯がうまくない」と、この耳で聞いた記憶がある。率直さでは鍋島女史も負けてはいないから堀さんを無視。法師のいう通り、同じ心の人としんみりと話すような相手は居そうもないのが現実(第12段)だった。
第38段には「悪口を言われても気にしない。褒める人も貶す人もいずれ死ぬから」とある。事実、本文に登場した方々はほとんどが故人になられた。協会発足で「みんな仲良く」協力出来る態勢は整ったと思っている。
以上
日本チェンバロ協会 御中
10周年 おめでとうございます。
この10年は災害、疫病、戦争の影響など、音楽界を変えるような試練に直面しました。そして皆様の対処が今後のチェンバロの道を開いてくれるような気がしております。 いま、「日本のチェンバロのあゆみ」のようなものを少しづつ記しておりますが、この楽器が移り行く社会の中をどう生きたか、教えられる思いが致します。
20世紀初頭、忘れられ、顧みられなかったこのチェンバロという楽器が復活された当時、音楽界からも多かった否定的な意見は、この日本にもみられました。 歴史の中で、第1世代が種を蒔き、努めた、チェンバロの歩みが、皆様に依って開かれ、次の10年に向って新たな歴史となるよう願っております。
風間 千壽子