準備委員会メンバーに1960年代以降のこと、提言とか思いつきを書くよういわれ承諾したものの中々書けずに時が過ぎてしまいました。協会を作ろうという声が上がってうれしいかぎりですが、祝意を表そうとする一方、取越し苦労の部分が噴出、錯綜、うまく纏まらないのです。実は40年ほど前にも同様な試みがあったのです。それを思い出して多少の参考にでもなればと綴ることにしました。
日本のチェンバロ第1世代は欧米の第1もしくは第2世代に教えを受けその活動を開始した。バロック音楽の受容も始まったばかりの揺籃模索の時期であった。幸い、チェンバロへの要請も予想したより多かったが、旧体制で固められた音楽界にバロックの原則を移植することは当然大きな拒絶反応を覚悟しなければならなかった。「トリルは上から始めるんですって... 」まるで彼らにとって不変の真理を破壊するインベーダーのようにみられる場面が頻発した。内部にも別の問題があった、つまり楽器自体も「モダン」から「ヒストリカル」への回帰の時期であったため多くの戸惑いや迷いが行方を阻んだ。「戸惑いや迷い」といえば、欧米の師匠格たる第1、2世代もそれに無関係という訳にはいかなかったし、もっと強い悩みに出会っていただろうと推測される。彼らは自身の立脚点保持のため、似かよった解釈を対立するものと言い、または本流に属さぬと主張する性癖を無意識的に作ったのではないだろうか? 我々にも受け継がれているだろうこの極端さは、たとえば「○○は協会に不適当だ、従って入会させず」という極端な純粋主義になって現れたりもした。この病的ともいえる症状に対しては「他者へむかって包容力と共有をもって接する」という治療が不可欠だと思うが「云うは易く、行うは難し」だと思う。
さて、日本の第1世代は当時、学んできたものをコツコツと検証中であった。考え方がまだ宙づりの状態だったから協会成立へとエンジンがかからなかった、といえるかもしれない。時期尚早といってしまえば簡単であるが、むしろ「考え中」という肯定的措置であったとみたい。
おそらくメーカーや楽器研究者らとの協調を要らないという人はいないでしょう。聖人たちの集まりではないから完全一致を望めば仲良しクラブと化しふやけてしまうことだろう。メーカー間で企業秘蜜の自由な交換が行われる、考えるだけで気持ちが悪い。メーカーは必要あらば独自のものを作ればよろしいのではないか。私はマグダレーナの音楽帳の中のAria di Giovanninの一節、 "Die Liebe muss bei beiden allzeit verschwiegen sein" を思い出す。日々満足を提供してくれる楽器、その製作者への感謝と信頼は個人的なものだと思う。
昔むさぼるように読んだ楽器論、詳細な報告的所見は最近、以前ほど出てこなくなった。新事実の発見が乏しいためであろう。できうる限り多くのデータから包括的な結論を抽きだす仕事はまだまだ初期的な途上にある。ここも、連携の是非が問われてしかるべきものかと思われる。過去にあった純粋主義にお前もはまっているではないかと責められてもしかたないが....ともかく出てくるだろう事象を老婆心ながらいささか危惧しております。
今日は情報過多の時代、クラウドという情報貯蔵機能も現れた、ネットの恩恵になれっこになり、二次資料(要点だけを引用)から自分自身で原典へさかのぼる機会はどんどん減少してきている。眼前を通過する安易な情報に惑わされない姿勢が重要かつ必要であります。
もともと演奏家というものは個性派で、自我の強い人たち、ましてやチェンバロという尋常な扱いでは発動してくれない楽器を相手にするバイアスがかかってチェンバリストが存在します。このような人々の協会はさぞ大変であろうと予測されます。しかし難事、難局に出会いますます奮発することは望ましいでしょう。すぐさま決裂は困ります。前述したようなチェンバロ奏者(第1、2世代とか分類した)のアプリオリな性格は変えられないでしょう、そもそも、そういうDNAをもつ人がチェンバロに惹きつけられた訳ですから。
心ある方々の真摯な情熱と努力のつみかさねにより「日本チェンバロ協会」の発足が遂に現実のものとなってきたことに対し、心から敬意と感謝を表せて頂きます。
私は戦後のアメリカ留学(1949-1954)でバロック音楽に目覚め、修士論文(H.パーセル)の参考資料として初めてハープシコードの音をLPで、更に帰国直前に生演奏を聴きました。帰国5年後にドイツ留学(1960-1963)の機を与えられ、バッハ研究のためにチェンバロを学び、帰朝リサイタルを京都及び大阪で開催したのは1964年の10月、半世紀近く前のことでした。折りしも日本にもバロックブームが波及してきた頃で、幸いこのチェンバロリサイタルは画期的な演奏会として関西の音楽界に受けとめられました。その頃東京では1961年ウィーンから帰国された西川清子氏、そして1962年にザルツブルグから帰国された山田貢氏、ドイツで学ばれた小林道夫氏が活躍中で、ヨーロッパで正式にチェンバロ奏法を習得したものは私達4人位の感がありました。
約10年を経て鍋島元子氏がオランダから帰国され、確実な計画の下に、チェンバロを中心とした研究会「古楽研究会ORIGO et PRACTICA」を創始され、多くの優秀な後継者を育成されまし た。先生が早世されたことは本当に悲しく残念なことでしたが、その教えはいよいよ深く門下の方々の中に宿り、没後10年を期に、日本におけるチェンバロに関する研究が始まりました。そして、現在活躍中のチェンバロ奏者と連携しながら「日本チェンバロ協会」の発足に向けての準備も始めたと聞きました。しかも協会員の範ちゅうをチェンバロ奏者に偏らせず多角的な専門の関係者を含め、「日本」のタイトルを付して国内のみならず国外にも視野の拡がりが見られることに慶びを覚えます。
願わくは当協会の行き届いた会則に準じて、広範囲の奥深く楽しい〈チェンバロ、古楽探求〉の基本をふまえ、各自、各グループの個性を生かして発展していくことが出来ます様に。常に謙虚さを失わず互いに学び合い、音楽の真実を求めてその喜びを分かち合うこと。こうして「日本チェンバロ協会」が歩み出すことによって、地球上の生あるものに貴重な貢献ができます様にと夢を馳せております。
フランスにクラヴサン協会(CLEF)というのが設立されたのが2004年3月だった。2005年には大きなフェスティヴァルが催されたのはまだ記憶に新しい(アントレ誌に紹介記事あります)。本場フランスでもなかなかこういう組織は難しかったのかもしれないが、今となればHPも充実しており、日本に居ながら幅広い情報が入手出来るのは有り難い。
さて、日本人のチェンバロ奏者も圧倒的に増え(特に外国在住組はこの10年で多くなった。昔はほとんどいなかったイタリア、スペインなどにも!)、楽器製作家、愛好家も相当の数になるだろう。しかし帰国して10年間で強く感じるのは、意外にも各地での情報の格差である。情報化社会を誇っているようで、必要な情報が滞っているのに驚く事がしばしばある。逆にネット上などでの情報が有りすぎるのかもしれない。そろそろ日本でも「良い」情報の集結・発信、取捨選択が出来る「広場」が整地されても良い時期ではないだろうか。
今回の協会発足が日本全国のチェンバロ関係者を繋げ、世界と共有出来る有意義なネットワーク作りの第1歩となる事を期待してやまない。
最近、知人に誘われるままフェイスブック登録をしたら、次々と懐かしの面々と繋がり、生活革命を促進するITパワーを感じた。音大で優秀だった女性も、音楽と無縁の人生にシフトしたときが最初の危機。消えていく人もいるなかで、子育てしながら近くリサイタルというフルート奏者の書き込みを見て、ぜひ聞きに行こうと思った。これは、ウエブ上の社会的ネットワーク効果の例。
ウエブのイージーさはないが、結社作りは音楽家にとって似た効果も期待される。仲間がいたほうが一人で悩むよりずっといい。一般の方にとっても、信頼できる道しるべができ、愛好家人口の増加に向けた動きがとれるだろう。
会発足後の夢。
蔵書にしたくなる会報の発行。先輩格のオルガン研究会の会報もよかった。ピリオド奏法研究は大切でどうしても楽理的になるが、ワークショップや発表の場提供。英国のHarpsichord & fortepianoマガジン誌2001年春号に出た、直接存じ上げないのでKazuo Ishiguroのような方かもしれないが、Asako Hirabayashi, 『エリザベス朝ヴァージナル音楽の装飾音・・・』関連論文のような研究は日本から発信できると良いし、大学の研究紀要より良いポジションがとれる。
だが、終わりの見えない藝術至上主義や学者になるより、良質の実践的エンターテイナーとして刺激しあう。そして古楽人口をふやす。
新作チェンバロ曲の演奏ほか現代的活用も忘れずに。
楽器製作家にとって究極の課題は「いい音」。そのための情報交換発表ができるシステム作り。上記マガジン誌に同時に出たMitchell の報告(超低ピッチをRCM蔵1531 年作Trasuntinoのコピー楽器で実験した)程度の研究ができるといい。
等々、心配性の高齢者発言をするたびに思い出すのは、ドラッガ―の「責任がない補佐役は有害である」という指摘。でも、このさい『マネジメント』の名言は参考になる。マーフィーの法則に曰く「失敗する可能性があれば失敗する」という不安はあるが、このたびの結社作りに期待するところ大なるものがある。